世界に類を見ない公害病ー水俣病

小学校、中学校を水俣で過ごした私の胸に今も生きている「水俣病」、住居が変わっても水俣に住んでいたと言えなかった私、50年が経ち改めて考えてみた。

  • もしこうなっていたら

水俣病」の原因企業が普通の企業だったら、人の命を大事にする心ある政治家や役人がいたら、政府関係者や企業関係者が「水俣病」患者だったら、東京湾で発生していたら、局面は180度異なっていただろう。

人の命に優先する国家とは何なんだろう?何故、他人の痛み想いを共有できないのだろうか。豊穣な人々を支えてくれる海が深い苦しみを生むとは。沈痛な思いが「水俣病」でまとわりつく。

  • 魚を食べなくなった

私の母親は長崎の平戸が実家だったので、魚が好きだったようだ。おかずは魚料理が多かった。
しかし、「あの付近で奇病が出た」「近寄るな伝染するぞ」「精神病らしい」「小魚を食べる漁民がおかしくなった」。。。。こんな話が多くなってくると魚を食べなくなった。
魚介類に蓄積された有機水銀が体内に入ると発症し、胎児も感染する。突如「狂ったように」のた打ち回り死んでしまう猫。
神経系統が破壊される「水俣病」は、チッソ水俣工場の排水中に含まれる有機水銀が原因だった。水俣湾から不知火海に汚染は広がっていった。

  • 怒声の町、悲しい町

漁業組合やチッソ労働組合の闘いはラディカルに、そして両組合とも分裂へ、チッソの切り崩しは熾烈を極めていった。患者にも執拗に”飴”が配られた。漁民にはチッソ入社の勧誘もあった。
「あそこの家には遊びに行くな」と言われた友人。「見舞金をもらう為ごねとっと」「よか家がたっとる」とねたみと陰口、子ども心に暗い雰囲気を感じていた。

  • 独占企業信奉が悲劇を拡大した

当時の水俣第一小学校は、熊本県下一のマンモス校だった。
独占企業チッソが全国からエリートを集め子どもも増えたからである。チッソの城下町ー水俣市は戦後急成長した。
化学工場「新日本窒素」(現チッソ)は当時、国営企業かのように国が力を入れた工場だった。「水俣病」の原因究明も対策も全く進まなかった原因は、この国家の政策優先にあった。「第二水俣病」と言われた新潟県昭和電工工場と比較してもよくわかる。
水俣ではチッソの悪口は言えない、そんなムードが蔓延していたと言うより現実であったと思う。

  • 50年経って市民の心は

その後、70年代には私の友人達の「環境大学」設置運動が起きた。環境モデル都市への取り組みも全市で展開され、ほば完成して水俣市は全国有数のモデル都市になった。
つい最近は、産業廃棄物最終処分場が何故か水俣に持ち上がり、当然にも反対運動が盛り上がった。
しかし、反対運動だけでは終わらなかった。市民の一致した”公害は真っ平”の思いが今年の2月5日には処分場反対の市長を誕生させた。反対運動は作られても反対の市長は実現しないのが今日の現状だが、水俣市民は違った。
50年前の事件により引き裂かれた市民の心は、癒されずとも未来に向かっては共有化された心として発現しつつあるようだ。素直に嬉しい。
今では私も「あの当時水俣で生活していました」と大きな声で言えるようになった。

  • 安心して暮せる社会【分断と差別、偏見の無い社会】の実現をお願いします

約1,600人が死亡して被害者は2万人を上回り、今も苦しむ人が多数いるという。
水俣病」が公に確認されてから50年を迎える日を前にして、熊本県議会が「国に要望する決議」をおこなった。

〜(患者)救済の道は国のかたくななまでの強硬な姿勢によって閉ざされたまま〜

首相も談話を発表した。

〜教訓を生かし、環境を守り安心して暮らしていける社会を実現すべく政府を挙げて取り組んでいく決意〜

交わらない決議と談話、この違いを埋めるために、また同じ悲劇を起こすのだろうか。