”ひむか”巡行 その7 黒田の家臣

馬ヶ背の散策道の入口付近から見下ろす海に小さな陸続きの島が見えます
「ここは”黒田の家臣”と呼ばれています」と鈴木さん。
???変な名前!と思いました。
でも、説明を聞いて、胸が詰まりました
又、長くなりますが、是非とも知っていただきたい歴史なので、ネットからも知り得たことも含めて書かせて頂きます


1862年、京都伏見の船宿・「寺田屋」で寺田屋騒動がありました。
薩摩藩主・島津久光が進める公武合体に反発する尊皇攘夷派とそれを抑えようと公武合体派の同士討ちですが、最終的には島津久光が差し向けた奈良原繁の決死の説得に尊皇攘夷派の志士が投降します。
投降した久留米藩真木和泉守、土佐藩吉村虎太郎ら藩籍を持つ者は各藩に引き渡され、薩摩藩士は船で国許に送還されることになりました。引き取り手のない浪人であった田中河内介、養子左馬介、も身柄を薩藩で預かることとなり藩士らと同じ船に乗船し、別の船に但馬国の千葉郁太郎、肥前の中村主計、筑前秋月藩士海賀宮門も乗りました。

でも、送還とは名ばかりで、寺田屋事件の中心人物である田中河内介とその息子は香川県・小豆島沖で惨殺、遺体は海へ投げ捨てられました。また、同じく他の3名も途中、この細島で殺害されました。
その後、細島の住人、黒木庄八が3名の遺体を発見し、不憫に思い墓を建て弔いました。そして、その内の一人の腹巻に「赤心報国唯四字、黒田家臣、海賀直求」とあったことから地元ではこの島を「黒田の家臣」と呼ぶようになったといわれています。また、この墓の世話は今も庄八の子孫の方が続けられているそうです。

そして、この話には後日談があるそうです。明治2年のある日、明治天皇大久保利通ら維新の功臣を前にして「幼少期、田中河内介という者に大変世話になった。寺田屋事件後、薩摩藩に預けられたと聞くが、その後を知るものはいないか」と質問されました。維新後、多くの要人を新政府に送り込んでいた薩摩藩では、この事件は絶対に口外してはならない秘密となっていたが、その場に居た小河一敏が「恐れながら・・・」と事件について奏上をすると、明治天皇は「それは哀れなことをしたものだ」と言い、薩摩出身の功臣を見渡して立ち去られたとか。田中河内介はかつて明治天皇の教育係だったのです。
薩摩藩出身の大久保利通はまさに寺田屋事件の事後処理を行った中心人物であり、その場で青ざめたといいます。この一件で小河は大久保に恨まれ、堺県知事に追いやられますが、明治11年、大久保利通が紀尾井坂で暗殺されると、田中河内介との因縁を思い「ああ、天というのはあるものか」と言ったといわれています。
そして、船上では河内介の同志である薩藩士に二人を斬るよう命がでました。彼らは当然これを拒否しましたが、藩命であると云われれば従わざるをえず、くじで特に河内介と親しくしていた柴山龍五郎が当たりました。苦渋している兄を見かねた弟是枝万助が代わりに父子を斬りましたが、後に彼は気がふれて生涯を廃人で終えたそうです。


今は墓の脇に田中河内介父子の慰霊土を埋設した記念碑が立っており、その脇には黒木庄八の墓もあるそうです。。
そして、その事件から150年にあたる今年、2012年5月4日に三士の子孫、海賀直求の実弟の子孫(2人)千葉郁太郎の関係者(1名)中村主計の子孫(8人)が事件以来の再会を果たしたそうです。
(写真は猫バス堂さんより、文はネットから無断拝借)

今度、”ひむか”に出向いたら”黒田の家臣”に立ち寄り、是非お墓に手を合わせたいと思いました