幸若舞

幸若舞は毎年1月20日にみやま氏瀬高の大江天満神社で奉納されています
舞といっても”草子(物語)”に節・拍子をつけて謡うものです
信長が幸若舞を愛好したのは有名ですが、秀吉も家康にも保護され江戸時代は幕府の式楽としての待遇を受けていました




幸若舞曲を創始したのは、源義家から10代後の桃井播磨守直常の孫桃井直詮といわれ、幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が出たといわれている。
幸若丸は越前国丹生郡西田中村に住んでいたが、父の没後、比叡山の稚児となり、生まれつき歌舞音楽に優れた才があり、草子に節をつけて謡ったのが評判になって「幸若舞」と呼ばれるようになったとのことである。これが越前幸若舞のはじまりである。だが越前幸若舞は、江戸幕府崩壊と共に廃業した。

大江幸若舞は初代幸若の子弥次郎の弟子の山本四郎左衛門が、幸若舞の一流である大頭流をたてた。その弟子の百足屋善兵衛の、そのまた弟子の大沢次助幸次が、天正10年(1582年)、筑後の山下城主蒲池鎮運に招かれて九州に渡り、柳川城主の蒲池鎮漣などが家臣達にこの舞を教えめんめんと伝えられていた。そして、1787年、大江の住人松尾平三郎に伝えられた。それが大江幸若舞である。明治維新後、禄を離れた各地の幸若舞はその舞を捨ててしまい、この大頭流の大江幸若舞のみが現在に伝わっている。大江の地に受け継がれてから、2013年現在で226年の伝統がある。(Wikipediaより)




大頭流の舞曲は全部で42番あって平家物語源平盛衰記義経紀・曽我物語などから取されていますが、現在は日本記・浜出・扇の的・夜討曽我・安宅・八島・和泉城・高館・敦盛の九曲が舞われています。
敦盛は信長が舞った「人生50年・・・」で有名な謡ですね

昔は本堂で舞われていて、その謡の内容が天井絵として書かれていたものが復元されています



大江の幸若舞は昭和51年に国指定重要無形民俗文化財に指定され
今は”陰陽の菊・五七の桐・下り藤”の紋が染め抜かれた幕が打ち廻された幸若舞堂で披露されてます

小鼓方一人が囃し、正面に立烏帽子の太夫、左右には待烏帽子のシテ・ワキが控え
、各右手に扇を持ち両手を張り袖口は折り体は上半身をやや前方へ曲げ目は四・五間先をみつめ
シテとワキは前後の動きで地謡を勤め、太夫は謡いつつ舞台を足踏み鳴らして前後左右のたすきがけに足を運び
、[
頭はほとんど動かさず武士的気風の満ちた舞です(小学5年生初舞台)


幸若丸が従来の草子舞の節拍子を研究し新調を試みたのが10歳の頃
それにちなみ、大江では小学5年生から後継者を育てているそうです


今回は小学5年生初舞台で「浜出」
2度めの出演の6年生と初出演の5年生の「日本記」
青年の「夜討曽我」
40代壮年の「和泉ケ城その1」
最高78歳も出演の元老クラスの「和泉ヶ城その2」

目をつぶり、朗々とした謡に聞き入る
暫く忘れていたことでした


ヘンバイと呼ばれる足踏みは地の悪霊を踏みつけ鎮める宗教的な意味もあるとか
それぞれの年代の謡の声の調子、ヘンバイの力強さをも感じとることができました