大自然に包まれても俗世間のいやな話が聞こえる

春霞

  • 朝もやに包まれる会員制民泊【木もれび庵 たゆたゆ】

快晴の早朝、朝もやが100メートル先の風景を幻にしてしまう。100メートル先がまったく見えない状態は霧というらしいが、「霧にむせぶ夜」はどこかで包まれたような気もしつつ、この付近は「さわやかな一日を呼ぶ朝もや」で一日が始まる。ところで「霞」という季語はあるが「もや」は季語には無いようだ。「霞」と「もや」は何がどう違うんだろうか。聞きなれた体験からの印象でいえば「霧」はもの思いにふける秋にふさわしく、「霞」は何かがこの先に始まるんだ、と予感させる春状態、「もや」はもやもやの心理状態とは裏腹にすがすがしさを今日という日に与えてくれるすがすがしさ、など独り言の風景描写はわがままに描かれる。

  • この卒業生は三綱領をどう受け止めているのだろう


済済黌高校の記念カップには「三綱領」が書いてある。その一つ”廉恥を重んじ”のなかの「廉恥」とは、広辞苑岩波書店:昭和45年第二版第四刷)によると「廉潔で恥を知る心のあること」。難解であるな。「廉潔」とは何だ、とひいた類語新辞典(三省堂:2005年初版)には”欲が少なく心や行いが清いさま”とあった。例文では”廉潔な政治家”。
我が済済黌高校卒業のある大臣を務める政治家は、光熱水費の事務所問題で疑惑をかけられているにもかかわらず、首相に守られているせいか潔さが見られない。この政治家の同級生、先輩から聞いたことがあるが、「彼の話はよく聞いてるな・・・・・」と自嘲気味に話していた。
先輩!高潔の士になってください。正しいなら明確に説明をお願いします。

  • 番外

熊本県立熊本工業高校センバツでベストフォーになった。
49年前、1953年のセンバツで済済黌高校が優勝したときにもベストフォーになった。それ以来になるのでがんばって欲しい。熊工の卒業生には、川上哲治(元巨人軍監督)や伊藤勤(西武監督)がいるが、戦後まもない頃は済々黌や熊工が甲子園で活躍していた。
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参考:≪三綱領について済済黌高校のHPから抜粋≫

 明治15年、開黌と同時に制定された三綱領、すでに120年の時が流れようとしている。根本精神は変わらないとしても、今に即した解釈は、是非欲しいものである。

(1)三綱領制定

 開黌と同時に制定し、戦前までの済々黌に在学した人にとっては、教育勅語と同じ比重で、いやある意味ではそれ以上の絶対的なものとして、受け取られたに違いない。いわゆる"校訓”の一種で はあろうが普通一般の校訓とは大いに異なる。
 帽子の”キナ線(黄線)”や伝統のスパルタ教練を”肉”として育つたとすれば三綱領はまさに”血”―済々黌そのものとして、生徒にたたき込まれてきた。
 三綱領は、明治時代の学校であればごく普通の内容であろうが他校とちがった受け取り方をしたのはなぜか?三綱領は校訓ではなく、開学以来の主義であり”決まり”なのだ。間違うことは許されない。「悪い事をすると職員室に座らされるだけでなく、三綱領を唱えさせられた」とは卒業生の懐古談によく出てくる話である。


(2)三綱領の解釈
第1条 正倫理 明大義(倫理を正し大義を明らかにす)
 
 この第1条は三育の徳育の柱である。倫理とは人間相互の間にある秩序であり、人のふむべき道である。す  なわち、親子、兄弟、夫婦、朋友など家庭や社会の正しい人間関係をいったのである。日本人としての自覚をもって、日本民族の歴史と伝統を尊び、祖国を愛し、同法を守り、更に進んで国際信義を重んじ、人類愛の精神をもって世界の平和と人類の幸福に貢献するなど現代流の大義ではあるまいか。

第2条 重廉恥 振元気(廉恥を重んじ元気を振ふ)

 この第2条は三育の体育の柱である。廉恥は心清く恥を知る事である。恥を知ることは日本人の伝統的美徳とされている。元気の字義は活動の根本となる気力または勇気である。ただし蛮勇粗暴は真の元気ではない。元気は為すべきは猛然として為し為すべからざるは断乎として為さざる勇気である。   そして真の勇気は廉恥を重んずることによって生まれる。格言にいう、自ら省みて直くんば、千万人といえども吾行かんの気概である。これを歴史的に見れば武士道精神の粋を採用したものである。口ーマの諺にもあるように、健全なる精神は健全なる身体に宿るのであって、創立当初から徳育、知育と並んで体育を重視し、質実剛健の気風養成に努めた。

第3条 磨知識 進文明(知識を磨き文明を進む)

 この第3条は三育の知育の柱である。学校の綱領としてはあまりに当然すぎるような目標と思われるが、これこそ第二条と並んで文武両道をあらわし 、徳育、体育と並んで三育併進に深い意味を包蔵するものである。歴史的には明治初期の文明開化の風潮を反映した箇条といえるだろう。
 五箇条御誓文にも「知識ヲ世界ニ求メ大イニ皇基ヲ振起スヘシ」とあるが、当時の官民挙げての旺盛な知識欲と欧米文化摂取の有様を示すものである。済々黌が創立当初よりこの方面でも大いに力を尽くしたことは『済々黌規則』に見られるように次々に改正された教育課程によって自肯できるが、また卒業生の中から政治、外交、経済、思想、文化各界に幾多の人材を輩出していることにより立証される。

▼三綱領は歴代黌長によってさまざまの解釈が加えられたが、それぞれ微妙なニュアンスの違いこそあれ"大義”をモットーとする基本原理は終戦まで変わらなかった。まさしく「終始一貫渝(かわ)らざる教えは知れよ三綱領」の黌歌のままだった。以米、済々黌は日本が進んだ国家主義の道に完全にマッチして発展  を遂げるのだが、それだけ終戦による民主主義との断絶は大きかった。今、済々黌がかかえる苦悩は、この”大義”の解釈にあるのではなかろうか?
    図書館蔵「済々黌物語」より一部抜粋