素人のてんやわんやの納屋作り《その一》

12月はじめに始まった納屋がいまだ完成しない。もちろん毎日の大工仕事は出来ず、雪や雨の自然現象から畑仕事、素人ゆえの泣き言(道具選びにのこぎりの使い方等など)までありすぎて時間がかかる納屋作りである。

  • 一日大工の問題提起

手作りとは、こんなにも時間がかかるのか。
「田舎暮らし」とは、わざわざ横文字で「スローライフ」と言わなくても生活そのものに手間と時間を費やしている。悠長に構えているわけでもなく長閑な気分に浸っているわけでもない。コンピューターやマシーン、分業や分担の世界、そういう会社組織や社会の仕組みとは異なり、一つ屋根の下での完成までの工程を一人又は数名でやり遂げる日常。これが生み、育て、消費するすべての過程に関わる「田舎暮らし」というものだと考える。連綿と続く農家の生活はそのようなものだったのではないだろうか。市場原理・競争社会とは無縁の日常、それが農家であろう。たゆたゆと流れる空間で黙々と(恐らく肉体は酷使して)働く姿に多くの人は感謝しエールを送ってきた。日本の礎は農家にあり、故郷から豊穣な「スローライフ」が息づき、それを遠く都市部で心に響かせ心の安らぎを得ていた。農村、漁村、自然豊かな地は我々の生命(いのち)を支えていたことに想いをはせたい。
今の時代、多くの人々は手作り、”造る”ということを知らずに過ごしているように思われる。
食料、日常品など衣食住すべてについて生み育てることを知らない"出来あいの物を消費する人”になっている。こんな消費者は、生命(いのち)や痛みの想像力から疎遠になり”消費”することのみに躍起になる。どのようにして出来たのだろう?どれだけの人の汗がにじんでいるのだろう?消費のレベルに来るまでの様々なドラマに想像力を働かせることが出来る人がたくさんいたらといつも思ってしまう。問題ありの子供の行動も”消費”しか知らないことに起因しているのではないだろうか。大きく変わってきている現在の社会の姿を生み出した原因は、案外とそこらにあるのかもしれないと思う。

  • 基礎

助っ人二人が来た。二人とも田舎暮らしのベテランで何でも出来る。ブロックを二段に積み生コンで固める。ブロックの下は砂利で固める。そこには強化のため割り竹も入れる。田んぼの建物は湿気対策が必要だからブロックは二段になった。「ブロックは水を含ませた方がコンクリートにはなじみやすい」との説も無視して、更にセメントと砂と砂利の割合もマニュアルより経験で生コン作りになった。でもうまくいったようだ。若干のひずみは我慢して。

  • 加工

助っ人の一人は建具を作る人。彼の作業場で材木の加工作業となった。
柱の先端の「ほぞ」を作り、それを桁の「ほぞ穴」に挿す。穴に差し込む時、スポッと入らないようにほぞは削り過ぎないようにする。後からノミで削ることが出来るし、コンコンと叩いて入れるので大丈夫。

  • 骨組み

角材を適所に振り分けて組み立て、土台の上に「屋台骨」作りである。
柱(はしら)を土台の上に立て、梁(はり)と桁(けた)をつなぐ。私も登ってコンコンと打ちつけた。ところが勢い余って額にかなづちをぶつけた。「どうしました。血が出てますよ」と恥ずかしい所を見られてしまった。生まれて初めての大工仕事ですもの、と言い訳しながら痛いのを我慢し作業を続けた。
”手作り”は痛さがいっぱい。でも楽しいから痛みもどこかに飛んでいく。

・・・・・【続く】