今日も考えました

  • 友、遠方より来る


中学時代の友人が近くに住まいを構えた。
全国の国立大学に勤務後退職して悠々自適の生活を向かえるそうだ。その友人と熊本の「立田山」で会った。立田山は我が母校「済済黌高校」や熊本大学を見下ろす昔懐かしい山である。
何故、山で。
立田山自然観察会の「キノコ採り」のイベント参加をかねての久しぶりの友人とのドッキングとなったから。
”キノコ観察”の散策というのに食べるキノコを目当てに参加された貪欲な大人たちもおられ残念でした。しかし、こんなにもたくさんの種類(ほとんどが食用に適さない)があり、自然を純粋に観察できる子供にはさぞかし印象深かった一日になったであろう。

  • そして友は去った

一昨年二人の親友が相次いで亡くなった。
順番ではなく、若くして生命が奪われることにはどうしても納得できない。お盆の時期になると数年毎に故郷で同窓会があるが、身近な人やうろ覚えの人などの名前が呼ばれての「黙祷」の声に電流が身体を走る。命あるものの宿命とはいえ、毎夏心揺さぶられるのはとても辛い。
その一人、嶋田澄夫君は中国・重慶と日本の架け橋をしたと朝日新聞(2008.6.13)が企画物で取り上げていた。「重慶ブルース」を作った彼は、私の野菜を利用して「中国でレストランでもしようか」等と言っていたが、中国からの最後になったメール、「胃が痛い。すぐ日本に帰るけどその時は連絡する」はいまでも心にむなしく響いている。





梅雨のアジサイは小さい頃の我が家を思い出させる。
子供の目線では目に飛び込むものすべてが広く大きく長いが、当時の門の脇にあるアジサイも大きかったー(大きく見えただけだろう)。大人になってからあんなに”大きい?”アジサイをいまだ見たことが無い!!ロマンは大人には無いのか。「隣のトトロ」よ、この地上に現れてくれ...........。【子供時代の感性は大人になると忘れられ、暗闇が覆う社会で頭でっかちの大人たちがうごめく】
今、「木もれび庵 たゆたゆ」にもたくさんのアジサイがある。思い出からアジサイを傍においていたい、あの風景をここにも、の感情がアジサイを集めさせている。


夕方になると「カナッカナッ」と鳴くヒグラシ。ここは、アブラゼミやミイミイゼミは鳴かない。夜には明かりを求めるのか薄明かりの窓ガラスに突撃する蛾や昆虫がたくさんいる。

  • こんな道路にも


何故、ドライバーにとって痛くもかゆくも無いのに補修するのだろうか。(写真のこの程度の痛み)
道路が傷んできたな、と”天の声”があったのか。あるいは、田舎にはこんな仕事が経済効果にもなる、予算がついたから、との意見だろうか。いくら公共交通ネットが京阪神や首都圏と比較して皆無にちかく「車がなければ生活できない」地方部であったとしても無駄なお金の使い方と思う。
マインドセットと大上段には言わないけど考える角度を少し変えれば新しい景色(未来図)が見えてくる、描くこともできると思うのだが。