8月6日に生まれた火

8月6日は広島に原爆が投下された日
いつもはテレビに映る火をなんとなく見ながら、黙祷していました

ユズボウの遺志をついで、中断していた四国遍路を4月に再び始めた時のことです
最後の88箇所目の大窪寺で、その炎に出会いました
結願!責任果たした安堵感と歩き始めてから足掛け10年、の思い出が蘇り
胸がいっぱいでご本尊の安置されている本堂にお参りしてから、太子堂へと歩いていた時のことです
階段を上がると、今までのお寺では見たことのない建造物が在りました
四角いガラスの中で燃える炎、”原爆の火”とかいてあります
だいたい”原爆の火”って何?広島で原爆を忘れないようにと燃え続けている火でしょう
何でこんな所にと思いました

そばの石碑に刻み込まれた文を読んでいるうちに、涙が止め処もなく流れて、嗚咽に変わりました
今まで、何も知らなかった!
ああ、それにしても、23年間どんなにか悔しい辛い思いをしながら、この火を絶やさないよう、灯し続けてこられたことでしょう
お遍路の最後のお寺に分火されて、沢山の人に知られて良かったなと思いました


知っている方もいらっしゃると思いますが、ここに書き移します
原爆の火・平和の火”

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 ■遺族が福岡で守り続けた火
 昭和20年8月の原爆投下後の広島でくすぶっていた残り火を犠牲者の遺族が持ち帰り、今も福岡県星野村で燃え続けている「平和の火」が8月1日、再び広島でともされる。これまで全国12カ所に分火されたが、被爆者らの抵抗感が残る広島ではともされなかった。しかし、被爆の記憶の風化が進むなか、若い世代に平和の尊さを訴えるため、62年の歳月を経て、被爆地を照らすことになったという。

 平和の火は、被爆約1カ月後の20年9月、福岡県星野村から広島へ叔父を捜しに来た故・山本達雄さん=平成16年に死去=が地下壕(ごう)でくすぶっていた原爆の残り火を懐炉に移して持ち帰った。
 山本さんは、二度と惨劇を繰り返さないとの願いを込め、この火を守り続けたが、昭和43年に星野村に管理を委託。現在も村の記念碑の中で燃え続けている。
 村は昭和63年から、再分火しないことなどを条件に、自治体や市民団体に分火。神奈川県鎌倉市大船観音寺や長野県茅野市の運動公園など12カ所でともされている。

 村は被爆地の広島市に対して5、6年前に分火を提案したが、広島市は管理の問題や「原爆の火」に対する被爆者らの感情を考慮して、火の受け入れを見送ったという。
 しかし、被爆者の高齢化が進んでいることや、分火された平和の火も財政難や設備の老朽化などで管理が難しくなっていることから、被爆地の広島でもNHK広島放送局(広島市中区)の協力で平和の火をともすことになった。
同放送局は、玄関横に記念碑を建立し、星野村の火と、昭和39年に全国の宗教関係者らが平和記念公園(同)で復興の願いを込めて点火した「平和の灯」の2つの火をもとに「ヒロシマの火 平和への灯」として点火することにしている。このほかに、広島ガス(同市南区)も分火を検討しているという。(3年前の産経新聞より)

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今朝の8時15分、今まで以上に深く深く黙祷をささげました

原爆の火は65年前の8月6日にうまれました
そして37年前の暑い日、私の亡くなった弟によく似た息子が、生まれた日でもあります