ただの観光桜ではない【荘川桜】の物語

私キリコは10年前、仕事のストレスで鬱状態になって苦しんだ。
食べられない、笑えない、朝起きられない、他人に会うのが怖い。必死で出口を探り、鏡に笑いかける練習をし始め1年後、背中から「おんぶお化け」がするりと滑り落ち、身が軽くなってたち直った。
それから、急に自然の移ろいに敏感になった。花の匂い、木々の変化、鳥や虫の声、雲や風の様子、月の満ち欠け・・・。《潜在意識が顕在化したのだろうか》

  • 涙したさくら物語

宇野千代”の薄墨桜の本に出会い、中島千波の桜の絵に出会い、あちこち訪ね歩いた。その後、”水上勉”の【桜守】に出てくるダムからの水没をまぬがれた岐阜県の2本の【荘川桜】を見に行きたいと思うようになった。
1999年4月末、会いに行った。
樹齢450年、高さ30m幹周囲は6mあまり。ごつごつとして苔も見える。花は思ったより小さい。ソメイヨシノではなくアズマヒガンザクラだからだろう。
関西や関東、東北の華やかな桜に親しんでいた私の眼には、質素でさびしく見えた。
でも、荘川村の1枚の小冊子を読んだ時涙があふれて止まらなかった。

  • 小冊子の抜粋

『。。。御母衣ダムの完成祝いに住民が移転先から水没した故郷を訪れたときのことである。
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一行のバスが(ダム)湖畔にそびえる(移植されて水没をまぬがれた)【荘川桜】のあたりに差し掛かると、一人の老婆が突然大声で「おーいタノムワーイ、タノムワーイ」と叫んで泣き崩れた。バスの同乗者も皆泣いていた。
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「タノムワーイ」の言葉はここの水没民でなければ出てこない叫びであった。(感激のあまり発作的に意味不明の絞り出された全身のうめき声だった)
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断ちがたい故郷への愛着。親・子・孫・幾世代にも渡りこの桜の下をくぐって寺詣りした故郷は今は湖底に沈む。日本人の心の故郷がなんであるかを物語る(かっては飛騨真宗の二つのお寺にあった)【荘川桜】はただの観光桜ではないといえよう。。。。』
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故・高碕達之助翁のことば
『進歩の名のもとに古き姿は次第に失われてゆく。だが、人の力で救えるものは何とかしても残してゆきたい。古きものは古きがゆえに尊いのである』

  • 甦った桜の影に多くの人あり

荘川村民はダム反対規制同盟死守会を結成して闘った。だがダム電発会社と最終的には妥協せざるをえなかった。
しかし、村民が愛した桜だけは「救いたい」と電発会社の総裁高碕達之助は、神戸の桜博士といわれる笹部新太郎に相談した。
400年の老木を「移植することなんて無理」だったが、「私財をなげうって桜をすくいたい」との高碕の熱意に笹部は動いた。
笹部は日本一の庭師丹羽政光に懇願した。
約500人もの人夫を動員して(ダム底から現在地までの)移植プロジェクト、無謀さで笑われた一大事業が始まった。
昭和35年(1960年)12月事業は完了した。
翌年4月、桜は花をつけた。植林史上かってない難事業が成功した瞬間である。
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今もこのパンフレットを読むと涙が出てくる。大事に写真とともにとってある。