もうひとつのブローチ

このオーソドックスなブローチのことは、はっきり覚えています

私は17歳の時水俣を去りました
水俣病発覚後、チッソでは大きな闘争がありました
組合員は団結して決起し、お金は入らなくても
人としての尊厳を維持しておりました
全国から、労働組合の応援があり、毎日のようにデモが続き市内は騒然としていました
でも、会社の切り崩しで第二組合が出来、仕事は第二組合員の人ばかり声がかかりました
組合員同士、疑うようになり亀裂が入りだしました
第一組合の拠点長をしていた父の流した涙を今でも私は覚えています


第一組合の人たちは最終的には解雇をうけるか、他の子会社への左遷かでした
父は苦渋の決断で千葉県野田市の子会社に移ることを決めました
私が17歳、高校の2年生のときでした

水俣を去る日、駅に見送りに来てくれた友人から「これは6年生のときのクラスの有志からよ」といって包みを渡されました
列車に乗って、包を開いてみるとオルゴールでした
そして、そのフタを開けるとこのブローチが入っていたのです

このブローチは何度も身につけました
手に取るたびに水俣での楽しかった生活、そして涙を流した父のことが思い出されます